ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、こちらにお願い申し上げます。
※2 何故、「評論」であるべきかについては、源内氏の「「感想」、「批評」、そして「考察」から「評論」へ」をご覧ください。
※3 「現実」あるいは「現実を受け入れる」ことにつき、源内氏の「Kanon考察」三部作(以下、「源内考察」)に詳しいです。本論考では、たびたび、「現実」について言及しますが、そのすべてが、「源内考察」での議論を前提としています。ご一読を強くおすすめいたします。
なお、ここで「現実」とは、「源内考察」内の注7に依拠します。「現実」とは、「リアルワールド」ではなく、その人にとっての現実を意味します。説明しにくいことですが、例えば、「まい」という存在を考えたとき、「まい」は本来、「リアルワールド」に存在すべきものではありません。しかし、「まい」は少なくとも、あの瞬間、祐一の心の中に確実に存在していました。この、「確実に存在」していることをもって、「現実」と呼ぶことにします。あるいは、「真実」と置き換えても良いのかもしれません。
本論考では、「源内考察」に対し、数多くの批判を展開していますが、別に、悪意があるわけではありません。逆に、良い考察であるからこそ、このように、多くの批判を展開するわけです。ただ、私が、文芸論(?)を展開し、源内氏が社会論を展開した、それだけの差だと思います。実際、私のジュヴナイル論は、「源内考察」の「現実」というキーワードを得て、完成しました。ここに簡単ながらも、源内氏に、深甚の敬意を表します。
※4 河合隼雄は、同33頁にて、『不思議の国のアリス』の一文を引用し、述語理論を以下のように定義します。
蛇は卵をたべる※5 これだけでは、一般的にファンタジーといわれるものの多くが、ファンタジーと定義付けるには不適切なものが多いという論証としては、不十分でしょう。より詳しい論証は、いつか「ファンタジーの本質」というタイトルで取り組む予定です。
アリスは卵をたべる
故に、アリスは蛇である
もちろん、この結論はまちがいである。…「卵をたべる」という述語部分が等しいとき、両者は等しいと結論づけるので、これは述語理論と呼ばれている。論理的にまちがっているが、このような論理構造のなかに、「卵をたべる」ものに対する鳩の恐怖心や警戒心を読みとるならば、納得できるところがある。
…述語理論は…印象的なことを相手に伝えたり、感動をもたらすためには潜在的に用いられているのである。
※6 児童文学だからといって、侮ってはいけません。そこで語られるジュヴナイルは、児童文学の傑作といわれる作品ほど、深い解釈を可能とします。
※7 もちろん、舞シナリオ最大の理不尽といえば、「まい」の存在自体です。ここでは、「まい」の理不尽性を立証しやすくするために、「まい」自身ではなく、「まい」を傷つけることによって引き起こされる結果を論証の対象にしました。ここは、正確な論証よりも、感情的に納得して貰うことを優先しています。
※8 内罰的なつぶやきを描いた代表的な作品として、私は、『新世記エヴァンゲリオン』(ガイナックス)を挙げさせていただきます。源内氏や本田氏は、『Kanon』(や『ONE』)をEVAの後継者と位置づけいています。
確かに、『Kanon』、そして『ONE』も『MOON.』も、結局は、今の暗い時代が生んだ申し子のようなものでしょう。そういう意味で、『Kanon』をEVAの後継者と位置づけることも、あながち外れてはいないでしょう。
しかし、私は、この意見には明確に反対の意思表示を提示いたします。なぜなら、源内氏のおっしゃるとおり、EVAはもはや、作品といえるものではないからです。そこにあるのは、現実逃避からの脱却(自分はむしろ、現実に対する憎悪を感じますが…)、ただそれだけです。EVAは、脱却の結果について、何も描いていません。ジュヴナイルとしての完結を願った『Kanon』とは、「現実」に対する認識には、根本的な差があると思われます。『Kanon』でいう「現実」とは、所詮、「成長」のための通過点にすぎません。EVAと『Kanon』とは、同じ「現実」を扱かった作品であっても、その方向性は、まったく異なるものですし、根本的にその質は異なるものだと考えます。両作は、似て(私に言わせれば、似てすらいませんが)非なるものでした。
※9 はじめは、『ONE』のファンタジー性については、これだけで論証を終わらせようとも考えていました。後に、「『ONE』構造分析」を書くときに改めて論証すれば十分と考えていたのです。しかし、いくつかのBBS、HPを読み歩いて、考えが変わりました。ここでせめて、浩平が一度消滅する意味を明らかにしてみたいと思います。さもなくば、ここの論証を誤読される恐れがあります。
一般に、『ONE』最大の謎と言われているのが、みずか=キミと「永遠の世界」という存在です。みずか=キミの方は、純粋に長森と解釈するなり、「永遠の世界」の住人と解釈するなりで、まだ何とかなります。問題は、「永遠の世界」です。ネット上を見回すと、多くの方が、「永遠の世界」とは何か、この謎に対して、何とか合理的な説明を付けようと様々な考察を展開しています。その中で、現在一番有力な見解が、「浩平の内面」説です。今となっては動かしがたい通説でしょう。「永遠の世界」とは、みさおの死に悲しんだ幼少の浩平の「現実逃避」が生み出したという見解です。繰り返し語られる「永遠の世界」らしき夢や、みさおの死を巡る幻視のシーンが、その根拠となっています。これは、『ONE』のジュヴナイル性を考えたとき、かなり説得的な説明です。動かしがたい通説となるのも納得できます。
しかし、それは『ONE』のもう一つの「構造」、ファンタジーという「様式」を無視することでもあります。何度も書くように、『ONE』は、ジュヴナイルの「構造」とファンタジーの「構造」という、二つの「構造」を有しています。とすれば、『ONE』を論じるにあたっては、常にその二つの「構造」に着目する必要があるのです。「浩平の内面」説は、確かに正しい見解なのですが、それだけではファンタジーの「様式」を無視することとなり、あまりに一面的な見解でしょう。
はっきりと言いましょう。みずか=キミと「永遠の世界」という存在は、ファンタジーの視点から説明しなければ、決して、論理一貫した説明は不可能です。考えても見てください。『ONE』がジュヴナイルだとすれば、何故、浩平は、ハッピーエンドにおいても、一度「永遠の世界」に消えてしまわねばならなかったのでしょうか。「浩平の内面」説によれば、「永遠の世界」は浩平の「現実逃避」が生み出したものです。そんな「現実逃避」の世界に、一時的といえども消えてしまった者をどうして「成長」したと言えるのでしょうか。ここが、「主人公のふがいなさが許せない。せめて「永遠の世界」に「消える」シナリオと「消えない」シナリオを用意するべきであった」(日向梓氏)という発言が飛び出す由縁でもあります。ここで、浩平のジュヴナイルを理論の前提とする「浩平の内面」説は破綻をきたします。「浩平の内面」説は、それ単体ではとても採用しかねない見解なのです。
では、ここで、かねてから私が主張するように、「永遠の世界」が妖精の国フェアリーランドであると考えた場合はどうなるのでしょうか。
まず、プレイヤーにとっては、「永遠の世界」に浚われることは、理解しがたい、理不尽なまでの不思議となるでしょう。現存するはずもない妖精の国に浚われるのです。それは、ファンタジー(幻想)以外の何物でもありません。『ONE』は、プレイヤーにとって、確かにファンタジー(幻想)でした。
しかし、浩平にとって「永遠の世界」はファンタジー(幻想)ではありません。それは、まさにあらがいがたいまでの「現実」なのです。我々が通常想像するような、ぽわぽわとしたおとぎ話ではありません。悪意に満ちた妖精たちとの、『生きるか死ぬかの戦い』なのです。
奇しくも、『指輪物語』の作者トールキンは、「妖精の国は危険なところです。不注意な者には、落とし穴が、無鉄砲な者には、地下牢が待ちうけています」と警告を発しました。『ゲド戦記』の作者ル・グインは、ファンタジーを「ほんとうの物語」と呼びました。読者にとって、ファンタジーはありもしない幻想であっても、登場人物にとって、その幻想はまさに「現実」なのです。しかも、それは、自然現象にも似た、あらがいがたいまでに強大で危険な存在です。登場人物は、ひたすら耐えて吹雪がすぎるのを待つしかない旅人のようなものです。ご存じでしょうか。本当のファンタジー、昔話において、妖精が、たとえ無邪気でも(そうです、妖精は、本当に無邪気なものです)、如何に悪意に満ち、人の命を何とも思わない存在であるか。昔話の魔女や妖精は、本当につまらない理由で人の命を奪う存在なのです。ですから、「浩平の内面」が「永遠の世界」を呼び出す原因となったとしても(そういう意味で「浩平の内面」説は正しいのです)、「永遠の世界」に浚われること自体は、浩平にとって過酷な「現実」との戦いなのです。「永遠の世界」が吹雪のような自然現象だとすれば、その吹雪の中で一時的に遭難することをどうして責められましょう。むしろ、遭難しながらも無事生還した浩平をたたえるべきです。浩平が一時的に「永遠の世界」に浚われるのは、はじめから決められていた「現実」でした。そして、それに逆らうことは、死と同意義なほど、『過酷な』「現実」だったのです。
『ONE』は、ファンタジー(「幻想」)を通して逆説的に、過酷な「現実」との戦いを描いたジュヴナイルだったといえましょう。
ちなみに、ファンタジーはこの逆説的表現を好んで使います。非現実を描くことで、「現実」との戦いを鮮やかに浮き彫りにさせるという手法です(マックス・リューティ『昔話の解釈』ちくま学芸文庫)。現実を知り尽くしてはじめてファンタジーが書けるといわれる由縁です。ファンタジーは、作り話やおとぎ話とは本質的に違う物語なのです(河合隼雄『ファンタジーを読む』講談社+α文庫27頁〜)。この点について、ファンタジーを誤解している方が本当に多いのが、困りものです。
とか、書いていたのですが、ここに、やま氏から、面白い反論が来ました(正確には、反論という形式で送られてきたわけではありません)。純粋に、ジュヴナイルの視点だけから、祐一が浚われねばならないわけを展開した論考です。いやあ、こういう、優れた反論があるから、議論というのは、面白い物です。やま氏のご許可をいただき、優れた反論の一例としてここに、掲載いたします。
※10 「源内考察」も、私と同じ立場で「恋愛の成就」を論じています。
そういえば、スタジオジブリ『耳を澄ませば』も、「結婚しよう」という最後の台詞は不要でした。別々の地で、それぞれ、少しずつながらも夢に向かって努力する段階で、ジュヴナイルとしての「成長」を書ききれているのに、なぜ、そこで「恋の成就」というイベントを挿入するでしょうか。どうやら、世間のニーズは甘い恋物語にあるようです。
※11 従って、本論考は、否定派が『Kanon』を否定する論拠につき、「源内考察」とは異なる点に求めます。
なぜなら、否定派がKanonを否定している大きな理由は、すべての物語で反復される悲劇、あるいは悲劇への予兆から、奇跡という名において行われる劇的なハッピーエンドへと結ぶ、物語の構造そのものであり、それは、この悲劇・奇跡・大団円という安易でご都合主義的な感動を生む構造を何故、今さら手法として選んだのか?というゲーム制作者への不信にまで繋がっているのものなのだから。それに対して、肯定派は、奇跡の構造を、あゆの想いであるとか、舞の力としてある種のファンタジー、おとぎ話として受け入れ、その上で、ある時は誠実に、ある時は感傷的にシナリオに同化し、そのディテールを分析して見せている。それではこの溝が埋まるはずもない。これは言い換えれば単に好きか、嫌いかという問題に収束してしまうのは目に見えている。
もちろん、そもそもファンタジーという「様式」自体を良しとしない立場の人間であれば、この説明で十分でしょう。
しかし、これは『ONE』を評価しつつも『Kanon』に対して否定的である人間に対する説明としては、まったくもって不十分なのです。考えてもみてください。『ONE』もまた、作品の「構造」自体は、「すべての物語で反復される悲劇、あるいは悲劇への予兆から、奇跡という名において行われる劇的なハッピーエンドへと結ぶ」です。それは、「悲劇・奇跡・大団円という安易でご都合主義的な感動を生む構造」を意味します。しかし、『ONE』を評価する多くの論者は、劇的なハッピーエンド、安易でご都合主義的な感動を生む構造、ファンタジーが単に好きか嫌いか、そのすべてを越えた次元で『ONE』を評価しています。それと同じく、『Kanon』も安易な構造だから否定されるわけではありません。単にファンタジーが好きか嫌いかで評価が分かれるものでもありません。そうではなく、『Kanon』にあった失敗とはまさに、二つの構造をまとめきれずファンタジーにもジュヴナイルにも成りきれなかった点、「安易でご都合主義的な感動を生む構造」を納得的に「演出」できなかった点、にあるのです。それがすなわち「ねじれ構造」なのです。
なお、だからといって、私は、「源内考察」のすべてを否定しているわけではありません。そこで論証された「今日性」「物語の消費」は、一般的には極めて流通性が高い論理であり、作品分析において極めて有用な理論であることは確かだからです。
※12 二つの構造を統合しようとしたのを、果敢な挑戦と見るべきか、それとも、単なる身の程知らずと呼ぶのかは、なかなか判断に苦しむところです。私としては、次回作への期待を込めて、果敢なる挑戦と評させていただきます。
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